■連載 FRBの歴史を知るならこれだ!4/5

インタビュー記事

    
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小谷野俊夫・静岡県立大学名誉教授へのインタヴュー 4/5
第4回「戦時金融と独立性の喪失――財務省の従者として」

 前回は大恐慌期における連邦準備制度の失敗と「中央銀行の無謬性」という問題についてお聞きしました。今回は、第二次世界大戦期における中央銀行の独立性の喪失と、その回復について伺います。

第二次世界大戦期、連邦準備制度はどのような状況に置かれたのでしょうか

小谷野――第二次世界大戦中、連邦準備制度は事実上、財務省の従者として機能することになりました。これは第一次世界大戦の時も同様でしたが、第二次世界大戦ではその傾向がさらに強まりました。
 戦争遂行には莫大な資金が必要です。その資金調達を円滑に行うため、政府は大量の国債を発行しなければなりませんでした。そして、国債を低金利で安定的に発行し続けるために、連邦準備制度に国債価格の維持、すなわち金利の上限設定を求めたのです

具体的にはどのような政策が実施されたのでしょうか

小谷野――連邦準備制度は、財務省との合意により、短期国債の金利を0.375%、長期国債の金利を2.5%に固定することを約束しました。
 これを実現するため、連邦準備制度は必要に応じて国債を無制限に購入する態勢を取りました。これは事実上、金融政策の放棄を意味するものです。金利は財務省の都合で決定され、連邦準備制度はそれを支えるために通貨を供給する役割に徹したのです。中央銀行の独立性という観点から見れば、これは完全な従属状態でした。

戦時中という特殊な状況では、それもやむを得なかったのではないでしょうか

小谷野――戦時中については、確かにそういう面もあります。国家の存亡がかかった戦争においては、すべての資源を戦争遂行に振り向けることが優先されます。中央銀行の独立性も、一時的に制限されることは理解できます。
 しかし問題は、戦争が終わった後です。1945年に戦争が終結した後も、財務省は国債金利の固定政策の継続を求めました。戦時中に発行された大量の国債を低金利で借り換えたいという財務省の思惑がありました。
 一方、連邦準備制度の中には、このままでは戦後のインフレを抑制できないという懸念が高まっていました。金利を人為的に低く抑え続ければ、通貨供給が過剰になり、インフレが加速する危険があったからです。

そこで対立が生じたわけですね

小谷野――そうです。1940年代後半から1951年にかけて、財務省と連邦準備制度の間で激しい綱引きが続きました。メルツァーは本書で、この時期の両者のやり取りを、議事録や書簡などから詳細に再構成しています。
 財務省は、国債金利の上昇は財政負担を増やし、(国際価格を下落させるので)戦時中に国債を購入した国民への背信行為だと主張しました。一方、連邦準備制度は、物価安定という中央銀行の本来の使命を果たすためには、金融政策の自由度を回復する必要があると訴えました。この対立の背景には、中央銀行の役割についての根本的な認識の違いがありました。財務省は連邦準備制度を政府の資金調達を支援する機関と見なしていたのに対し、連邦準備制度は独立した金融政策運営機関としての地位を回復したいと考えていたのです。

1950年に朝鮮戦争が始まりますが、これも影響したのでしょうか

小谷野――朝鮮戦争の勃発は、この対立を激化させました。財務省は、新たな戦争のための資金調達が必要だとして、引き続き低金利政策の維持を求めました。
 しかし連邦準備制度は、朝鮮戦争による需要増加でインフレ圧力が高まっている以上、もはや低金利政策を続けることはできないと主張しました。このままでは、第二次世界大戦後のような深刻なインフレが再来する危険があったのです。
 対立は政治問題化し、トルーマン大統領も巻き込んだ論争となりました。

そして1951年のアコードへと展開していくわけですね

小谷野――はい。1951年3月、ついに財務省と連邦準備制度の間で歴史的な合意が成立しました。これが「財務省-連邦準備制度アコード」です。
 このアコードにより、連邦準備制度は国債金利を固定する義務から解放され、インフレ抑制のための金融政策を実施する自由を回復しました。これは、近代的な意味での中央銀行の独立性が確立された画期的な出来事でした。
 メルツァーは、このアコードの成立過程を詳細に描写しています。元連邦準備制度理事会議長マリナー・エクルズ(理事会議長の任期が切れた時に、トルーマン大統領によって議長として再任されず、理事として残っていました)や、ニューヨーク連銀総裁アラン・スプロールといった人物たちが、トルーマン大統領や財務省の圧力に対して、いかに粘り強く独立性の回復のために戦ったかが描かれています。

アコード成立の要因はどこにあったのでしょうか

小谷野――いくつかの要因が重なりました。第一に、インフレへの懸念が高まり、世論も連邦準備制度の主張に理解を示すようになったこと。第二に、連邦準備制度の指導者たちが、専門的な論拠に基づいて粘り強く主張を続けたこと。第三に、議会の中にも中央銀行の独立性を支持する勢力があったことです。
 重要なのは、連邦準備制度が単に政治的な対立に勝ったのではなく、専門的な正当性を持って独立性の必要性を主張し続けたということです。これは、中央銀行の独立性は、単に法律で保障されるだけでなく、中央銀行自身が専門性と信認を維持することで初めて実質的に確保されるということを示しています。

アコード以降、中央銀行の独立性は守られてきたのでしょうか

小谷野――アコード以降も、大統領によっては政権に都合の良い政策を求めることがありました。たとえば、リンドン・ジョンソン大統領は1965年12月に公定歩合を引き上げたマクチェスニー・マーチン・ジュニア連邦準備制度理事会議長をテキサス州にある自分の牧場に呼びつけて圧力をかけたという有名なエピソードがあります。ニクソン大統領も1972年の大統領選挙を前に、金融緩和を求めたといわれています。
 しかし、それでも、トランプ大統領が連邦準備制度理事会議長に対して公の場で金利を引き下げるように要請したり、理事の罷免を示唆したりするなど、あからさまに中央銀行の独立性を侵害することはありませんでした。
 トランプ大統領の行為は、1951年のアコード以来守られてきた規範を破るものです。これは、70年近くかけて築かれてきた中央銀行の独立性という原則への、重大な挑戦であるといえます。

日本ではどうでしょうか

小谷野――日本でも似たような問題がありました。2013年に政府は日本銀行法を改正すると脅して、日本銀行に政府とのアコード(政策協定)を結ばせたことがあります。これは日本銀行の独立性を尊重するというよりも、政府の意向を反映させる手段として使われた側面がありました。その意味で、アメリカの1951年の財務省-連邦準備制度間のアコードとは、意味合いが逆です。日本銀行と政府の間の政策協定にアコードという言葉を使ったことには違和感を禁じえません。
 また、2013年に就任した黒田東彦日本銀行総裁のもとで始まった異次元金融緩和は、安倍晋三政権の経済政策(アベノミクス)と密接に連動していました。これが適切な金融政策であったのか、それとも政治的圧力に屈したものであったのか、今後、さらに検証していく必要があります。

戦時期の歴史から、現代の私たちは何を学ぶべきでしょうか

小谷野――第一に、中央銀行の独立性は一度失われると、回復するのに長い時間と大きな努力が必要であるということです。連邦準備制度は、第二次世界大戦中に失った独立性を回復するのに、6年もの歳月を要しました。
 第二に、独立性は法律や制度だけでは守れないということです。中央銀行自身が、専門性を維持し、政策の正当性を説明し、世論の支持を得る努力を続けなければなりません。1951年のアコードが成立したのも、連邦準備制度が専門的な論拠に基づいて主張を続けたからです。
 第三に、緊急時においても、中央銀行の独立性の重要性を忘れてはならないということです。戦時中や経済・金融危機の際には、政府と中央銀行の協力が必要です。しかし、それが恒常的な従属関係になってはなりません。緊急時の協力と、平時の独立性のバランスをどう取るかが重要です。

次回は最終回ですね

小谷野――はい。次回は、本書が現代の日本に対してどのような示唆を与えるのか、そして読者の皆さんにこの本をどのように読んでいただきたいかについてお話ししたいと思います。トランプ大統領のFRB介入、リーマンショックの教訓、そして日本の金融政策の課題など、現代的な問題と本書の歴史的考察を結びつけてお話ししようと思います。


(第4回終わり) 

    
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